| 今日のムージル 投稿者:チイ 投稿日:2016/11/03(Thu) 14:09 No.2108 | |
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 | とやこうするうちに夏がきていた。配達された一通の手紙の中にはじめて病気の息子の筆蹟を見た時、幸福感とひそやかな所有のおののきが、彼の眼から脚にまで流れくだった。彼らが今彼の滞在地を知っているということは、彼には法外な保障のように思われた。 彼がここにいる、そう、それを知っただけで、もうなんでもわかっているはずなのた、何ひとつ説明する必要はなかったのだ。白、紫、緑、茶、さまざまな色に野はよそおいをこらしていた。彼は幽霊ではなかった。やわらかな緑の髪をおいしげらせた、落葉松の老樹の童話めいた森が、エメラルドの色した斜面をおおっていた。苔の下には紫色や白色の水晶が息づいているかもしれなかった。ある時森の中央で、小川が岩を踊りこえて流れ落ちた時、そのたたずまいはさながら大きな銀の櫛のようだった。彼はもう妻の手紙に返事を出さなかった。この自然界のおびただしい秘密はたがいに結びあいながら、ひとつの全体を形づくっていた。あわい緋色の花が咲いていたが、これは他のどの男の世界にもなく、ただ彼の世界にだけ咲いていたのだった。紛うことない奇蹟として、神がそのようにとりはからわれたのだった。秘められた肉体の一点があって、死を招こうというのでないならばなんぴともそれを見ることは許されなかったが、ただひとりにだけは許されていたのだ。そういうことが、彼にはこの時、深遠な宗教のみの持つ不思議な無意味さと非現実性にあふれているように思われた。この夏家族からひとりはなれ、われとわが心の奔流のおもむくままに流されてきたのが、いったいどういうことだったのか、今はじめて会得されたのだ。彼は緑青色のひげを垂らした木々のあいだにひざまずき、両手を大きく広げた。まだ生涯に一度もしたことがない振る舞いだった。この瞬間、われとわが身が自分の腕の中からもぎはなされたような心地がした。彼はおのれの手のうちにあいするものの手を感じ、愛するものの声を耳にした。肉体のありとある部分が、今はじめて外界の接触を受けたようだった。自分が誰か別人の肉体によって構成された形態のような気がした。しかし彼はおのが生命を投げ捨てていたのだ。愛するものの前で彼の心はかぎりなくつつましく、乞食のように貧しくなっていた。誓いと涙がまさに魂の中からあふれ出ようたしていた。だが、それにもかかわらず、彼がもう帰らないということは確実だった。 |
| Re: 今日のムージル くま - 2016/11/04(Fri) 07:57 No.2109 | |
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 | これはムージルの何というのですか。すごいね、体温が上がる。この調子が続くのかな。 |
| Re: 今日のムージル チイ - 2016/11/06(Sun) 10:58 No.2110 | |
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 | いそけんさんオススメの、三人の女(グリージャ)だよ こっから最後までテンションすごい でまた終わり方がカッコいいんだわ |
| Re: 今日のムージル くま - 2016/11/08(Tue) 08:45 No.2111 | |
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 | ぐええ。原作者も訳者もすげえ。目が見えてるうちに読まないとやばいね
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